先日、近所で餅つき大会があった。
「餅つき大会!お餅が食べられるんだ~」
そんな軽い気持ちで参加したわけだが、そこで人生に通じる経験を学ぶことになった。
牧歌的風景
餅つきなんて何年ぶりだろうか。そんな思いで会場にたどり着いた。
- 炭火とかまどで蒸されるもち米
- 杵と臼が用意された光景
- まわりを走り回る子供たち
どこかのどかで、牧歌的な風景が目の前に広がっていた。しばらくすると、蒸しあがったもち米が臼のなかに投入された。
いよいよだ。餅つきがはじまる。
餅をつくということ
もち米を杵で捏ねて、粒のない状態にもっていく。
全体に粘りが帯びてくると、ほどよい柔らかさに仕上げていく。
杵が振り下ろされ、臼の中で打ち付けられる音がリズムよく刻まれた。
リズムを聞きながら、同時にどこか不安な気持ちが襲ってきた。
「わたしにできるのだろうか・・・」
お手伝いなんて意気込んできたが、どうみても力作業だなと後悔した。
臼の周りで待機してきた参加者に交じり、餅をつく作業を眺めていた。このまま見続けてもいいかな。いや、手伝いに来たんだろ。男を見せろ!心の中で自分自身に喝を入れた。
意を決して、杵を手に取り、うすの前に向き合った。
「さて、やるか」
周りが見守る中、杵を振りかざした。
力を込めて、臼めがけて投じると、音が・・・しない?
「あれ?」
もち米の上で力のない杵が「ぺしゃっ」と乾いた音を立てていた。何度振り下ろしても結果は変わらず。己の非力さは知っていた。よもやここまでとは・・・。
あまりの出来の悪さに、自分自身泣きたい気分だった。
参加した子供たちのほうがリズムよかったそうです・・・
それは不憫でしたね
しびれを切らしたほかの参加者によって、私の出番は強制終了となった。
違いは明白だった。ほかの参加者と比べても、力が入っていなかったのは、間違いない。ほかの参加者が杵を臼に投じると、パーンという音が響いていた。
しばらく眺めていると、杵だけでなく、足腰も使って振り下ろしているようにもみえた。
「全身を使えばいいんだな」
時間をおいて、杵を再び手に取った。全身を使えば・・・
餅に打ち付けるように振り下ろした。今度はどうだ?
ふと大会の主催者がほかの参加者に耳打ちをしているのが聞こえた。
「全くダメ。基礎がなっていない」
あえなく撃沈。
なにがだめなのか。
ここで白髪交じりの男性が杵を手に取った。
杵を振り下ろすと、いとも簡単にパーンという音を臼の中で響かせた。
同じ道具を使っているのになぜ?
一連の動きが終わると、周りの参加者(むしろ私に言い聞かせるため?)にこう説明をはじめた。
軸足を決めて、杵を振りかざしたら、お餅ではなく臼の中心を突く
もし、お餅がずれていたら?
それはお餅を返す相手次第。重要なのは、
臼の中心を突くこと
しばらく、そのことばがこころのなかで反復していた。
中心を突く
いとも簡単に行われていた。かっこよさすら感じた。なにより、軸足を置いてから、杵を振りかざす一連の動きが、どこか武道に通じるような型を思わせた。
違いはこれか?
わたしがしていたのは、力任せに振り下ろしていただけにすぎない。突くという動きとは大きく違っていた。
考えてみればそうだ。餅”つき”なのだから。
その後も、餅をつくお手伝い(もどき)に挑戦してみたが、会得できたとはいいがたい出来だった。
残念ながら戦力にはなれず。だがそれ以上に、人生にも通じる教訓を学んだ。
中心を突く
シンプルだからこそ難しい。ものごとの本質を見せられたような一日だった。
余談
大会が終わった後はどうしていたんですか?
二次会に参加させてもらい、お餅のお土産までいただきました。
お餅のお替りが欲しかったので大満足でした。
それはよかったね
でもお餅って日持ちしないよね
たしかに生ものだし、当日までお楽しみだね。
中心を突く
この言葉にふれて、あなたもぞくぞくしてこないだろうか。
もし感ずることがあれば、問い合わせフォームからお寄せください。あなたの熱い思い待っています。
それでは、別の記事でまた会いましょう。
では!