経済学の父、アダム・スミス。経済学や経済史の愛好家たち(多くが自由主義者)がこぞって取り上げているのを、よく目にする。市場原理を語る根拠として、もっぱら、国富論からの引用が多い。いわば、己の利益が社会を動かす原動力なんだと。
そのためか、アダム・スミスの印象というと
- 見えざる神の手で行われる市場原理
- 肉屋・酒屋・パン屋で有名なたとえ話「博愛心よりも利己心」
- 弱肉強食の資本主義の先取り
散々な言われようである。はたして、アダム・スミスは己の利益だけがはびこる社会を望んでいたのだろうか。
はっきり言おう。誤解である。アダム・スミスが伝えたかったのは、そんな野蛮な理論ではない。
木を見て森を見ず?
道徳感情論が書かれた経緯
アダム・スミス「道徳感情論」(村井章子・北川知子訳)・日経BPクラシックより
1751年から1764年までアダム・スミスは、グラスゴー大学に赴任。そこで、論理学と道徳哲学の授業を担当していた。教えていた生徒の一人に、のちにグラスゴー大学の教授になる、ジョン・ミラーがいた。四部構成となっていた授業をノートにまとめたものが、のちの道徳感情論の原案となった。1759年、道徳感情論を発表。アダム・スミスは死ぬまでに6度の改訂を行う。
ちなみに、国富論も授業の経済部分から派生したものなんだね
「共感」~人間が社会で生きていくために必要なこと~
アダム・スミスは、社会が成り立つ根っこにあるのは、共感とした。相手がにこやかだったり、どこか落ち込んだ様子をみせていたときに、人間はどうにか相手のことを知ろうとする。
「うんうん、そうだね」
「そうか、つらかったんだね」
共感というと相手を思いやる言葉として知られているが、あくまでも言葉の上でのやりとり。感情が入っているかどうかは、わからない。もう一歩、踏み込まなければ、共感したとはいえない。
そこで必要なのは、想像力。つまり、相手の立場を自分のことのように置き換える作業を頭の中ですること。
「もし、自分が相手の立場なら、よろこびを目いっぱい受け止めるだろうな!!」
「もし、自分が相手の立場なら、この苦しみは耐えられないだろうな・・・」
相手の立場になって考えるから、共感をして、心が動かされる。アダム・スミスはそう説く。なお、共感にはこんな一面があることも指摘する。
そして、私たちが友人にわかってもらいたいと願うのは、喜びのような快い情念よりも、悲しみのような不快な情念であることに気づかされる。共に喜んでもらうより共に悲しんでもらうことに満足し、悲しみへの共感が得られないときの方が衝撃は大きい。
道徳感情論 村井章子 日経BPクラシック p61
人間感情の複雑さを言い表していないだろうか。
共感と想像力・・・
結果だけでなく過程も見定めろ!
行動する基準は、相手からみて、共感を覚えるものかどうか。アダム・スミスは問う。
助け合いなどの善行は進んで行うべきことだが、結果論だけで判断してはいけない。心がよこしまで、他人がみているときだけいい人振る人間が、たまたま人助けをしたからといって、尊敬できる人間とは限らない。(助けられた人は感謝するかもしれないが・・・)
行動が伴わない善意や心に秘めただけで目的を達しないことは、他人から評価できない。もちろん、利己心からの行動はもってのほかだ。アダム・スミスはこう説く。
善と意図は、ただちに実行に移すのが最も称賛に値する。いつまでもやらないでいると、しまいには悪いことになってしまう。一方、悪意は、いくらでも逡巡し、塾慮し、遅らせたらよろしい。どれほど先延ばししても、延ばしすぎることはない。
上掲書 p265
徳という道徳感情
抱えきれない富や名声を得たからといって、人間が幸福を感じることは少ない。物質的な富を獲得した先に目指すは、すなわち、生涯健康なからだ・こころでいること。
そこに辿り着くまでに、ただ金儲けをすればいいわけではない。
自らは、理性・理解・自制心が備わっているか。相手に対しては、慈悲・正義・寛容・公共心を発揮しているか。どの視点からも、正しい振る舞いを行っているかどうか。すなわち、徳である。
働いて富を増やす過程で、徳を養っていく。そのうえで、健康面も気遣う。
不健康な体では、社会的成功はむなしい。
お金だけあってもね・・・
人格が備わっていても、不健康だと心もとない。
説得力がない!!
だからこそ、健康なからだ・こころがあって、社会的な成功(富・名声)と人格(徳)が意味をなしてくる。
くり返し著書の中で使われていた言葉
- 相手の立場で
- 他人の目で
- 感情移入
相手を思いやり、想像すること。そして行動に移して、徳を養っていく。そうしたやり取りが、道徳感情となり、社会の中で生きていくうえで、必要不可欠な技術となっていく。
ただし、善意だけでは人は怠ける
そこで出てくるのが、正義。正義があることで2つの面で安定性が増す。ひとつめは、社会面。道徳心を通じて自制することを覚える。ふたつめは、法律面。罰則があることで戒めを与える。この2つがあることで、社会形成となる。
アダム・スミスは説く。これこそ自然(神の導き)である。
意外とシビアな見方だね
現実主義者としても知られていたからね
まとめ
ここまでおつかれさまです。まとめに入ります。
アダム・スミスが道徳感情論で伝えたかったことは、共感と想像力による思いやり。もちろん、それだけで社会がなりたっているわけではない。さまざまな感情(正義・義務・慈愛・博愛・利己心など)がどう行動を変化させるかで、社会が成り立っている。
道徳感情論を一読してもらえれば、アダム・スミスの考えていた社会の在り方を垣間見れるのでは?
僧侶の修行をありきたりだと論じたり、日本が軽くあしらわれていたりと。「これはちょっとね・・・」と思える箇所もあったけどね・・・
追記
ちなみに、四郎。アダム・スミス問題って知っているか?
なんですかそれは?
ある基準をめぐって、専門家が頭を抱えた問題さ
ふ~ん、どんな?
ぎゅっとまとめるとね、
今回取り上げた「道徳感情論」では共感や想像力が社会を成り立たせる。なのに、次に出版された「国富論」では利己心が社会を成り立たせる。まったく違う主張になっているのはなんで?どうして?と。
この2冊の間で、どんなこころ変わりが起きたんだ!!と騒ぎたてたんだ
でも、ここまで読んでもらったのならわかると思うけど、明らかな読み違えだよね。
アダム・スミスは、利己心は感情の一部でしかないし、それだけで社会が動いていると論じでもいない
たしかに・・・今まで、肉屋・酒屋・パン屋の印象が強すぎたからね
いい社会をつくっていくために悩んで出した考えが、ゆがめられた結果だね
都合がいい部分しか見ないんだね
相手の立場に立って、想像力を働かせて、感情を引きたて、よき行動に移す。感情がある生き物がもっている共感だからこそ、磨き続けていく必要性があるように感じます。
ただ共感しています!ではなく、相手の立場になって、相手のこころを読み解く。アダム・スミスの冷静な観察眼でとらえ人間のこころの動き。大切なことを語りかけています。