あなたの文章にはひとを引き寄せる力がある。
もし、文章を使った仕事にしているのであれば、これほどの誉め言葉はないでしょう。
比喩などの技法が尽くされた文章は、読む手にため息をつかせるほど、驚くべき代物ばかりです。いわば、職人芸です。
もしかしたら、小説家や短歌・川柳などの歌人など、文章の表現を生業にしているのならば、日常茶飯事なのかもしれません。
対照的に、コピーライティングはどうでしょうか。
文章をつかった作業であることは間違いありません。ですが、文章のうまさが結果を左右するとはあまり聞きません。
はたして、コピーライティングと文章のうまさは関係するのでしょうか。

文章のうまさか、言われてみたいな
ぶんしょう(ぶっちょう)面だから無理か
さぁて、進めますか(無視)
なんのために文章を書くのか
表現としての文章
コピーライティングにかぎらず、文章を書こうとしてるのは、なにか目的があるからになりません。
自分用に、こっそりとメモ帳書きではなく、わざわざ外部に向けて、文章を書くのですから、そうせざる負えない理由があるはずです。
小説家や歌人など文章の職人たちは、
表現したい
そうした思いが作品を通じて、読み手のこころをつかんで離しません。
作品を通じて、伝えたい何かがあり、届けたい想いがある。いわば、世界観がものをいうのです。
理解としての文章
それでは、コピーライティングの目的は表現でしょうか。
ひとつだけはっきりしていることは、コピーライティングを通して得られる結果が他とは違うことです。
小説家・歌人たちは、読み手の納得にかかわらず、己の世界観に引きずり込むことができれば、御の字です。
対してコピーライティングは、読み手が納得の上で、こちらが求める行動に移してくれるかどうかがカギです。
つまり、読み手が理解してくれることが目的であるともいえます。

マイ ダジャレ キャン ユー アンダースタンド?

インパッシブル
良し悪しは読者が決めるもの
たとえば、あなたはスーパーで夕食の買い出しにきているとします。今夜はカレーです。
あなたは、大き目の具材が入った辛口のカレーが好きだとします。

辛くないのがいいです!

どのみち、食べられません
にんじん・たまねぎ・じゃがいもといった基本のメンバーを揃えて、さてカレー粉はどうしようかと思案中。
キューブ・パウダー・はたまたお手製にするか。スーパーの店内を回りながら、頭の中ではもうカレーが出来上がっています。決めました。お手製にしよう。
ここで、スパイスコーナーに足をとめて、あなたのお好みにあうものを選んでいます。
今あなたが必要としていることは・・・
どのくらいの辛口になるのかの目安
大き目の具材があう辛さを探しているわけですからね。このとき、スパイスの説明書きには、辛さの目安があればいいわけです。
商品で見かけるアピール文があります。例えば、
ネパールの高原で育った力強い辛さ
インドの文化が育んだ深みのある香り
これらを読んだところで
「それで、どう辛いの?」
こういった感想しか持ちません。途方に暮れてしまいますよね。
だからこそ、コピーライティングの目的して達成すべきなのは、読み手が理解できる文章で書かれていて、納得してくれるかどうかなのです。文章がうまくても、読み手からすれば二の次です。

それで、カレーはどうだったの?
おいしくできたようです(by風のうわさ)。
むすびに
コピーライティングに文章のうまさが必要とはいえない。そう考える理由として
- 小説家・歌人たちの作品と違い、世界観ではなく、読み手の理解が先決
- 文学的な表現よりも、知りたい情報が一目でわかる文章
文章のうまさはなくても、最低限の文法は整えておいたほうが無難ではある。どんなに文章を書いても
「主語がわからない・・・」
それではもったいないですからね。

その点、わたしのだじゃれは、だれに対してもやさしい

いいえ、こどもだましです
コピーライティングに文章のうまさは関係ない。それでも気になるのが、文章のプロには世界観がある。こうしたものを持ち合わせていないわれわれに勝ち目はあるのか。
次回以降にご期待ください。それでは!