机の上にずらりと並べられた料理を堪能して、
開かれた風景と心地よい温泉に浸かり、
マッサージを受けながら穏やかな時間が過ぎていく・・・
一通り終えて、部屋でくつろいでいると、同行してくれた旅館のスタッフからこう耳打ちされます・・・
「あいにくの曇り空ですが、条件が合えば窓から富士山が見えるんですよ」
目を凝らしても見つからないが、晴れていればそうなのだろうな・・・。
嘘ではあるが嘘ではない!?
上記の様子は、あるバラエティ番組で行われたドッキリの流れです。

ほっ・・・ドッキリ(安堵)
番組内では、「大げさなウソにタレントがダマされちゃって(笑)」と茶化していましたが、わたしは違う感想がよぎりました。
「これって、結構グレーな手だな・・・一歩間違えればサギに使えそうだ・・・」
見えなくても、そうだと納得してしまう瞬間があるのです。
わたしが感じた違和感、あなたも味わってみますか?

そうやって高みの見物だな!
ん?どういう意味?

富士山だけにマウント取りたいんでしょう?

寒いです
(山 → マウンテン → マウント)あぁ・・・そういうことか、納得。

言葉と感情が真逆なんだけど(怒)
無視していきましょう。
境界線があいまいになる瞬間
旅ロケを出発点として、撮影(偽番組)は進んでいきます。
旅館のスタッフが富士山のはなしを持ち出すのは、撮影の休憩に入ったときです。
それまでの張りつめた空気から解放されたためか、タレントの警戒心は緩んでいます。
その隙をついて、旅館スタッフは語ります。
簡単な世間話からはじまり、旅館の居心地・評価を経て、本題に入ります。
「晴れていれば、この窓辺から富士山の姿をみることができるんですよ」
「海外の方が肉眼ではっきりと見えたとおっしゃっていました」
「言い伝えに富士山に関わりがあるものがあるんですよ」
ここで気づくのが、大袈裟なウソでも、「もしかしたら・・・」と思い込ませれば、それほど疑われないことです。
仮にハッタリでも、現実味が伴えば、押し通せてしまうのが、なんとも恐ろしいことです。
見えなくても正当化するのはなぜ?
はっきりいえば、ウソです。それなのに、聞かされたタレントは疑うことよりも信じてみようとしたのか。
わたくしが思うに、その正体は自己正当化です。
「富士山がみえます」と聞かされると、たとえ今は見えなくても、
「これだけ良くしてくれた旅館がウソをつくわけがない・・・」
「きっと今回は運が悪かったんだ・・・」
「きっと晴れていれば・・・」
今見ている先には絶対にあるんだと思い込むことでやり過ごそうとします。
ここには疑問よりも願望が先走っているようにみえます。
でもこれって、タレントだけが陥るものでしょうか。
誰しも、「この先には○○があります」と掲げられれば、意地でもそうなってほしいと願い、しまいにはそうなるもんだと自らを思い込ませるのです。
わたしが冒頭に違和感と書いたのはこのことです。
もちろん、ハッタリすべてが悪だとはいいません。
やる気や人生を切り開いていこうとする原動力には欠かせないものです。今の現状に我慢ならないのであれば、大いに活用すべきでしょう。
反面、相手のこころをもてあそび、利益を独り占めしてやろうとの企みに走っていくのであれば、わたしは勧めません。
ヒトとしての常識があればわかることだと思いますが・・・。あなたは間違った選択をしないと信じています。
むすびに
富士山が見えます。ウソでも正当化する理由は・・・?
- よくしてくれた相手を信じて、疑わない
- きっと運が悪かったと、自らの非を責める
- 条件がそろえば、巡り合えると信じる
付け加えるなら、大きなハッタリの中に現実味が含まれていることも重要な点です。
もし、この記事が役に立った・おもしろいと感じてもらえたら、幸いです。
また会いましょう。
では!